2002年 10月4日(金曜日) PM7:00 Start
この日朝からPA機器の搬入等 準備は万全・・・でもないか 『豊田勇造』氏は13時54分新富士駅着の新幹線で到着予定です お迎えの為時間に余裕をもって12時過ぎにペンションを出発 9月に京都から姪が遊びに来るというので新富士駅まで迎えに行った時 早めに出掛けて正解でした 途中事故があり渋滞に巻き込まれたのですが 早く出掛けたお陰で間に合った訳ですから 勇造氏を待たす事があってはなりません・・・リキが入っとります・・・?
迎えに行く道中壱時間余りの中で 豊田氏と私の出会いから今に至るまでの出来事を思い返していました 勇造氏との出会いは今から33〜4年前でしょうか
当時の私は 京都の下鴨の一本松にあった 巷では「日本で最初のロック喫茶」と言われていたお店でアルバイトをしていました 20歳の頃です このお店で働くことは私にとって天国でした なぜならば お昼頃から夜の11時ころまでが勤務時間でしたが その間中音楽が聞ける最高の環境にいた訳です そこで毎週土曜日『豊田勇造ライヴ』がありました 『ユーゾー・ライヴの思い出』と言えばいつもいっぱい 身動きが出来ないほどでした オーダー受けても持っていけない 常連さん達のバケツ・リレーです はっきりいってこの剣幕 私は洋楽がこの時間帯聴けない・・・『ユーゾー・ライヴ』は私にはうんざりの時間でした しかし其の内 『ユーゾー・ライヴ』が始まるとオーダーが無くなり 皆一体化していました 必然的に業務保留状態 聴きましたね「ユーゾーのメッセージ」 知らないうちファンになっとりました・・・
永い年月が流れ 私はここ河口湖で「ペンション・ラヴィン・スプーンフル」をスタート 「豊田勇造」というミュージシャンのことはすっかり忘れていました ある日 こちらのローカル新聞を見ていた時の事です 「タイ米を歌うミュージシャン・豊田勇造」・・・生きとったんかい・豊田くん!・・・思わず思ってしまいました(なんのこっチヤ・・・?) 記事の内容はタイ米のことですが 「東京・町田在住の豊田氏はタイに居を構える・・・」 豊田君はタイに行ってしまったんや 二度と会うこと無いやろ そう感じさせられる記事の内容でした 記憶は蘇り・・・そして忘却の彼方へ
我が家もインターネット環境になり 私自身 以前の様に朝起床 新聞を取りに・・・朝新聞を読む・が無くなり 朝刊を昼に・朝刊を夜に・読むというスタイルになっていました ある日の事です 6時頃起きた私は 何気なく朝刊取りに・・・毎週木曜日に「山梨のイベント情報」というタブロイド版が付いてくるのですが それを見たとたん 『豊田勇造・甲府ライヴ』・・・目が点状態 そしてタイからの帰国ライヴだと勝手に思いました 参加したのは言うまでもありません 2001年4月の事です
再会した豊田君との会話の中で タイに住んでいるという謎も解けました 彼はタイを行き来していて 居住は京都だと言う事がわかりました 実に ン十年振りの再会でした でこの時河口湖で『ユーゾー・ライヴ」を計画しようと思い立った瞬間でした 打ち上げにAM2:00〜頃までオジャマムシさせて頂いた『甲府の「イッセイ」』さんのマスターとママさん 本当にありがとうございました
予定どうり新富士に到着した豊田君を乗せ・・・いざ河口湖へ
当日・演奏された曲目
一部 | 二部 | アンコール |
@ | 歌いながら夜を往け | @ | タイ米ブルース | @ | 満月 |
A | 海の始まり | A | ブンミー | A | ブルーズ フォー サマーン ※ |
B | Happy birth Day For Yoko | B | マダム デカ ※ | B | チャオプラヤ河に 抱かれて |
C | Map Of The Map | C | 雲遊天下 ※ | ||
D | ありがとう ディラン | D | 行方不知 | ||
E | 花の都 ペシャワール | E | 唇かみしめて | ||
F | Old Man Blues | F | 振り返るには 早すぎる |
注:※・・・が付いている曲目は「イマイ氏」とのセッションです
追加:一部のDかEの所で“そんなんやない”が脱落していました
本当に聴きたかったら這ってでも来い・・・そのまま病院から直行してくれた「ミスター・ホスピタル・イマイ」 彼とユーゾーとの音合わせのショットです(左上・右下) 彼「ホスピタル・イマイ」はお盆の頃にアクシデントに見舞われ入院中でしたが 今回のライヴに這って来ました そして見事『ユーゾーとセッション』を叶えました すごいお方です 現在「カフェ&ケーキ・モビー-グレープ」で弾き語りを交渉中です (ホスピタル・イマイは勇造氏がライヴ当日名付け親となりました)
「ユーゾー・ライヴ」の真っ只中 私はデジカメとスチールの2台で写真をとりまくり・・・そのかなりの数のカットを見比べて あぜん・・・まるで連続写真のごとく変化に乏しいカットの写真でした・・・おそまつ
30数年という歳月を超えてあの頃が蘇るというおセンチな「ライヴ」ではなかった ギター一本で生きてきた「豊田勇造」のすごさを・唄の深遠さを垣間見た様な気がしました 今回のライヴでは歌われなかったが「大文字」が彼の生きる道を決めたとか・・・
当時の出来事を一つ この出来事を知っている人は少ないかも知れません 1970年頃だったと記憶していますが 当時のNHKには 1CHの他に 2チャンネル(掲示板ではありませんぞ)が「教育チャンネル」として存在していました 文字どうりお堅い番組が多い中 一つだけユニークな番組「若い広場」という若者番組がありました 当時のNHKとしては型破りというか画期的な番組だったと記憶しています 『「風間杜夫・つか・こうへい等」 現在活躍している人物のかけだしのころの映像が放映されてたそうです』 その番組に当時の豊田氏が取材を受け『若い広場』で放送されました 『マップ』でのライヴが放送されたのです 私は確かにその放映を見た記憶があります 私も出演者でした(半身だけでした(笑) 「若い広場」のスタッフの「豊田勇造」に狙いをつけたその着眼点もすごい
今NHKでは「もう一度見たいあの番組」へのリクエストを募集しています ドラマが多い中 番外編として「若い広場」があるそうです 見たい気持ちがありますが『豊田勇造』は“いま・そして・これから”・・・だと思います
参考までに “みんなでリクエスト” http://www2.nhk.or.jp/tv50/archives/index.htmlです
*追加情報を戴きました「ジェフ・ベック」「殺そうと思うだけで良かったのに」が唄われたそうです・・・「アルマジロ」さん感謝です
翌日 彼は長野でのライヴ会場へ移動する為大月駅まで送る車中で 豊田君と毎年定期的に「ライヴ」を開催しようと約束しお見送りしたのですが 今回「ライヴ」に参加できなかった人や 今回参加できた人達にも2度3度と参加してほしいと思っています 遅ればせながら ここ河口湖からも「豊田勇造の唄」を広めていければいいなと思っています
今回のライヴ 4月が予定でしたが受け入れ側の都合で10月になった訳ですが ポスターは2月頃から一ヶ月以上かけて作りました 勇造氏から資料も戴いて其の中に勇造氏の写真もありました 勇造氏の「優しさ」です 口の悪い輩は「営業よ 営業やったらそれぐらいするで」・・・
「そんなんやない・・・ない・・・ない・・・ ない」 テキストにはリバーブ効かんのかい・・・勇造氏の写真はやはり没でした 私が考えたレイアウトでは彼から送られてきた写真では 顔の部分にかなりの文字がかぶる事になり あんまりじゃーということになり 違う画像を使う事になりました 幸い勇造氏の画像は 彼の以前のホーム・ページ等からダウン・ロードしてストックしていましたから よりどり・みどり状態・・・です で出来上がったポスターは『豊田氏曰く この写真は“Y市のライヴ”の時の写真や』 私は軽いショックを受けました 「Y市」といえば私が生まれた土地です 小学校一年生までいた所です 其の上豊田氏の唄には「中海ブルース」がある 聞くとまさにそのとおり・・・うーん不思議 『ホスピタル・イマイ』」氏も何故か不思議な因縁をもってこの「ペンション ラヴィン・スプーンフル」を訪れられたみたいですが 許可を得て無いので公表は控えさしていただきます この写真を使ったポスターを我がホーム・ページに貼り付けた事 そこに勇造氏のオフィシャル・サイトのアドレスをリンクした事 すべて事後承諾です・・・ということです よい子は真似しないでください 関係各位の皆様にこの場で謝罪します 何一つクレームが来ないからといって・・・ルール違反ですぞ ごめんなさい
私が驚いた豊田勇造氏のもう一つの活動を紹介しておきます ここをクリックして下さい→勇造のTシャツ